般若心経の謎を解く―誰もがわかる仏教入門
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仏教は般若心経についての本は数多あり、その中でも分かりやすそうなものをいくつか読んだことはあるのだけど、どれも、わかったようなわからないような…という感じだった。
この本の著者も同じようなことを言っている。お坊さんや学者など専門家が書くとどうしても核心をぼかして周りを説明するから結局のところよくわからず、最後に狐につままれたような気持ちになるのだと。著者はこの原因を、お坊さんは、一般の人に核心部分を教えてしまうと自分たちの仕事がなくなってしまうから…などと書いているけれど、私はちょっと違って、たぶん、お坊さんたちにもよくわかっていない、というかわかっているけれどそれを言葉で表現し、人に教える能力がないのだと思う。「名選手名監督にあらず」とも言うように、「理解する・できる」ということと、「教える・育てる」という能力は別なのだ。
この本を読み終わってから思ったのだけど、般若心経の意味を教えるというのは、私たちが日常的に使っている「日本語」を、全然話せない外国人に教えるようなもの。日本語自体は確かに理解しているのに、いざ教えようと思うと、いったい何から教えていいのか分からない。「意味なんて考えずに、とにかくなんでもいいから聞いた通りに繰り返してみて」ってなってしまう。
まさに般若心経。意味なんてわからなくていいから、とにかく唱えること。結局、意味を知ったところで、最終的には最初に戻って、「意味を考えずに唱える」のが般若心経なのだと理解するのだけど、いきなり「意味を考えるな」って言われても「なんで!?」ってなる。
日本語を習いたい外国人の中にも、きちんと文法から習いたい人だっているだろう。そういう人は、「日本語を教える」スキルのある講師がいる語学学校などに行く。日本語をペラペラと話している人からといって、その人たち全員に教える能力があるかというとそうではないのだ。「わかりやすく教える」というのは特殊能力である。
そういう意味で、お坊さんで小説家である玄侑 宗久氏の「現代語訳 般若心経」ならわかりやすいかと思って読んだことがあるのだけど、冒頭に言ったような感想。わかったような、わからないような。部分的には共感でき、理解できたような気にもなるのだけど、最終的には「あれ、それで結局なんだったんだ?」ということに。小説家ならば「伝える」能力があるからきっとわかりやすいだろうと思ったのに。それでも他の本に比べたらわかりやすいのだろう。Amazonでは「般若心経」で検索すると1位になっている。「〜謎を解く」は41位だった。こっちのほうが絶対にわかりやすいのに。
著者の三田誠広氏は芥川賞作家。お坊さんでも学者でもないらしいが、小さい頃に仏教の本を熱心に読んだ、と本文に書いてあったので仏教(や宗教?)に造詣が深そう。
般若心経の説明をするために、まずは仏教の歴史について詳しく説明されている。そうなのだ、般若心経以前に、仏教とはなんぞや、ということがわからん。キリスト教の聖書のように、これ、という本もない。お経はいろいろな種類があるし、宗派もいろいろだし、いったいどこから手をつけていいのやら。そして、そもそも、仏様の教えとはなんなのだ、と思い、広く普及している般若心経がわかれば仏教もわかるかも、という思いから般若心経の解説書を手に取った。…そういう私のような読者は多いと思う。
考えて見れば、三田氏のように宗派を超えて仏教全般に対する豊富な知識を持っていて、なおかつ読者に分かりやすい平易な文章を書ける人というのはごくごく少数なのだろう。お坊さんや学者の書くものが難しくなるのは仕方がない。三田氏の文章はわかりやすく読みやすい。小説のようにすらすらと読み進められた。
般若心経の解説書のはずなのに、般若心経については冒頭部分と最後の部分で触れられていて、途中はあまり関係ないと思われる仏教の歴史と般若心経の成り立ちについて。ところがどっこい、全編通して読み終えるときにはちゃんと般若心経の「核心」について理解できたような気分になった。この「理解」が正しいものなのかどうかは置いておいて、とにかく、「納得」できたのだった。
そして、仏教というものがなんなのか、ということも、わかったような気分になった。いままで、お寺などで仏像を見ても違いがよくわからなかったけれど、「なるほど、そういうことだったのか」と確かに「謎が解けた」のだった。
現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))
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