音楽の素養はないのだけど、一応、ピアノは幼児の頃から習っていて、ちっとも上達しなかったけれど高校生までゆるゆると続けていた。絵を描くことと違って、自然にピアノを弾きたくなったりすることはなくて、やはりあまり向いていなかったのだと思うし、そもそも音楽を聴いたり、楽器を演奏したりすることは、生活の中で、自分にとって重要なことではなかった。と、だいぶ大人になった今になって思う。
それでもピアノを習っていたことは、自分の人生の中の土台のひとつで、それなりに大きな比重を占めている。ピアノの、音楽の、ままならなさ。楽譜から音に変換するという作業。同じピアノ、同じ楽譜なのに、先生は上手に弾けて(子どもの頃はそれが当たり前だと思っていた)、自分は上手く弾けない。お手本となる音楽が、自分の中にないから、最終的にどこを目指して練習しているのか分からなかった。だから、続かなかった。コンクールに出るとかそういうゴールじゃなくて、自分の中に、奏でたい音楽というものがなかったのだと思う。その頃はなぜ上手く弾けないのか、なぜ上達しないのか、なぜ練習が嫌いだったのか、よくわからなかったけれど、今なら、そう思う。
絵を描くことに関しては、逆に、誰に教わらなくても自分の中に描きたいものがあったり、完成図は分からなくても「描く」とか「造る」という作業自体が好きで、手を動かしていた。だから、きっと、音楽をする人たちは、自分の中に自分の音楽があって、そうせざるを得ない衝動があって、自然に音が紡ぎ出されるんだろうな、と思う。
絵と音楽、両方を体験して、そういう違いが分かった。
だから、本の中で、ピアノを弾かない(弾けない)、音楽にも詳しくない主人公の男子高校生が、ピアノの調律の場面に立ち会ってその職業にすうっと惹かれてゆくというのも、なんとなくすんなりと理解できた。たぶん、自分の中にもともとあったものが、調律師という職業と出会ってぴったりとはまったのだ。
我が家のピアノも年に一度、必ず調律に来てもらっていた。ずっと同じ調律師さんで、家族で唯一ピアノを弾ける私が、ほとんど(というかまったく)弾かないので、いつも「あまり弾いてないですね」と言われてしまっていた。8年くらい前に家のリフォームを機に、ピアノも処分することにして、その調律師さんにお願いして買い取りをしてもらった。我が家のピアノのことを、持ち主よりもよくわかっている調律師さん。弾いてないけど状態はよいので、それなりの値段で引き取ってもらえた。ほとんど弾かなかったとはいえ、30年以上も我が家にあって、それなりに愛着もあったので、きちんとわかってる人に引き取ってもらえてよかったと思う。悔いは無い。
そんないきさつもあって、ピアノの調律師さんという職業に多少の親近感がある。小説を読みながら、我が家に来てくれていた調律師さんはどういう経歴だったのだろうと思いを馳せた。学校のピアノの調律も多く請け負っていたようだから、その調律を見て調律師を目指した学生さんも、もしかしたら、いたかもしれない。
調律師の物語ではあるけど、一種のお仕事小説で、青春小説で、主人公の成長物語でもある。決して天才ではないけれど、等身大の自分を見つめながら一歩一歩進んでゆく主人公に好感が持てる。職場の楽器店の調律師さんたち同僚も個性的で、それぞれに違った風味の温かみがあり憎めない。ふんわりとじんわりと心に残る小説だった。
第13回本屋大賞受賞作。
(電子書籍で読了)