映像で見てみたい◆『マチネの終わりに』平野 啓一郎

新聞連載中からウェブで無料公開していて、その発表方法が面白いなと感じていた小説。じわじわと話題になって、映画化。

ミステリーでもSFでも時代劇でもない恋愛小説が苦手。なので、話題になってもなかなか読む気にはならなかった。しかし、新聞に連載していたときからちらちらと見ていたこともあり、福山雅治と石田ゆり子主演の映画はちょっと見てみたいと思ったので先に小説を読んでみた。

想像以上に大人の恋愛小説で、途中で読むのが辛くなってしまったけれど、なんとか読了。恋愛小説でも、若い子の、というか2人がラブラブでドキドキ、みたいなものはまだいいのだけど、大人の恋愛は、じっくり、じわじわと攻めてくるので辛い。

しかも、音楽家の苦悩やらイラク戦争やら、エピソードが重い。そして、すれ違った2人がなかなか会えない。遠い異国にいてもインターネットを駆使して愛を育む2人。しかし、肝心なときにトラブルと第三者の思惑が交錯して通じ合えない。いやいや…それはないでしょうと思いながら、現実世界でも似たような行き違いはあるだろうし、結果としてこの小説のような展開になることもあるのだろうなと思うことにして読み進める。

お互いを想いながら別々の人生を歩む2人。そして周囲の人々。それぞれに感情移入できるキャラクターがいそう。小説もいいのだけど、やはり、音楽が重要なポイントでもあるし、映画やドラマでそれぞれのキャラクターが動いているところを見てみたい。

小説での思わせぶりなエンディングも、映像作品では制作者の裁量でいかようにもできそう。

(電子書籍で読了)

ディープな戦い◆『ストーカーとの七〇〇日戦争』内澤 旬子

だいぶ前に読了してたのだけど、ここに書くのが遅くなってしまった。読み終わった直後の感想じゃないのでちょっと熟成されてしまってるかも。

今現在、ご自身や身近な方がストーカー被害に遭っている方も、これから遭いそうな方も、まったくそんな心配はないよっていう方でも、読んでおいて損はないであろう1冊。

著者はイラストレーターで文筆家。以前からエッセイや挿画を担当された本を読んでいたので馴染みがあったこともあり、実体験エッセイのような気持ちで読み始めたのだけど、想像以上にディープな世界だった。そして想像以上に被害が深刻で、解決までにかなりこじれてて、これ、本にして大丈夫なのかなと思うところも多々。

しかし、(まだ読んでないけど)癌の闘病やら家畜を自らの手で育てて屠畜して食べるとか、かなり常人離れした生活をしてそれを文章に書くというお仕事をされている方なので、このネタを書かずにおれるかという意気込みも感じたのだった。そういう勢いのあるところが好きなのだけど、ことストーカーへの対応に関しては、「いやいや…それはちょっと…」と思う部分もありつつ、いや、だからこその内澤旬子、と思う部分もあり。

作家さんのストーカー被害ということで、ファンの方がこじらせてしつこくつきまとうような被害を想像して読み始めたのだけど、実は恋愛関係のもつれが発端で、十分に一般の方々にも当てはまるような体験談が綴られている。自分自身に当てはめれば、ストーカー化した相手に、第三者を挟まずに直接連絡するとかあり得ないのだけど、それをやってしまうし、しかもそれの何が問題かをあまり理解してなさそうなところもあって、ストーカー被害をこじらせてしまう被害者側の気持ちのようなものもなんとなくわかった。

いや、理解はできないのだけど、そういう人もいるのか、と勉強になった。ストーカーとは違うのだけど、ネット上でのいざこざでも、どうしてそこで(問題をこじらせるような)そういう行動を取るかな…という方がいて、ナゾだったのだけど、彼らの中では自然な思考回路なのだな。

とはいえ、この本の中で著者が体験した警察や司法関係者などとのやりとりは、実際に被害に遭っている方にはとても参考になるのではないかと思う。やりとりの中で、警察、検察の思惑や逮捕までの労力も垣間見えて、被害者救済が簡単ではないことがよくわかる。

(電子書籍で読了)

調律師というお仕事◆『羊と鋼の森』宮下 奈都

音楽の素養はないのだけど、一応、ピアノは幼児の頃から習っていて、ちっとも上達しなかったけれど高校生までゆるゆると続けていた。絵を描くことと違って、自然にピアノを弾きたくなったりすることはなくて、やはりあまり向いていなかったのだと思うし、そもそも音楽を聴いたり、楽器を演奏したりすることは、生活の中で、自分にとって重要なことではなかった。と、だいぶ大人になった今になって思う。

それでもピアノを習っていたことは、自分の人生の中の土台のひとつで、それなりに大きな比重を占めている。ピアノの、音楽の、ままならなさ。楽譜から音に変換するという作業。同じピアノ、同じ楽譜なのに、先生は上手に弾けて(子どもの頃はそれが当たり前だと思っていた)、自分は上手く弾けない。お手本となる音楽が、自分の中にないから、最終的にどこを目指して練習しているのか分からなかった。だから、続かなかった。コンクールに出るとかそういうゴールじゃなくて、自分の中に、奏でたい音楽というものがなかったのだと思う。その頃はなぜ上手く弾けないのか、なぜ上達しないのか、なぜ練習が嫌いだったのか、よくわからなかったけれど、今なら、そう思う。

絵を描くことに関しては、逆に、誰に教わらなくても自分の中に描きたいものがあったり、完成図は分からなくても「描く」とか「造る」という作業自体が好きで、手を動かしていた。だから、きっと、音楽をする人たちは、自分の中に自分の音楽があって、そうせざるを得ない衝動があって、自然に音が紡ぎ出されるんだろうな、と思う。

絵と音楽、両方を体験して、そういう違いが分かった。

だから、本の中で、ピアノを弾かない(弾けない)、音楽にも詳しくない主人公の男子高校生が、ピアノの調律の場面に立ち会ってその職業にすうっと惹かれてゆくというのも、なんとなくすんなりと理解できた。たぶん、自分の中にもともとあったものが、調律師という職業と出会ってぴったりとはまったのだ。

我が家のピアノも年に一度、必ず調律に来てもらっていた。ずっと同じ調律師さんで、家族で唯一ピアノを弾ける私が、ほとんど(というかまったく)弾かないので、いつも「あまり弾いてないですね」と言われてしまっていた。8年くらい前に家のリフォームを機に、ピアノも処分することにして、その調律師さんにお願いして買い取りをしてもらった。我が家のピアノのことを、持ち主よりもよくわかっている調律師さん。弾いてないけど状態はよいので、それなりの値段で引き取ってもらえた。ほとんど弾かなかったとはいえ、30年以上も我が家にあって、それなりに愛着もあったので、きちんとわかってる人に引き取ってもらえてよかったと思う。悔いは無い。

そんないきさつもあって、ピアノの調律師さんという職業に多少の親近感がある。小説を読みながら、我が家に来てくれていた調律師さんはどういう経歴だったのだろうと思いを馳せた。学校のピアノの調律も多く請け負っていたようだから、その調律を見て調律師を目指した学生さんも、もしかしたら、いたかもしれない。

調律師の物語ではあるけど、一種のお仕事小説で、青春小説で、主人公の成長物語でもある。決して天才ではないけれど、等身大の自分を見つめながら一歩一歩進んでゆく主人公に好感が持てる。職場の楽器店の調律師さんたち同僚も個性的で、それぞれに違った風味の温かみがあり憎めない。ふんわりとじんわりと心に残る小説だった。

第13回本屋大賞受賞作。

(電子書籍で読了)

遊郭の女性たちの自立★『ゆうじょこう』村田 喜代子

明治初期の遊郭で生きる女性たちの物語。貧しい漁村から売られてきたイチ。東雲楼の花魁、東雲さんと紫さん。遊廓の中の教場で、女郎たちに文字を教える鐵子(てつこ)さん。

鐵子さんは落ちぶれた武家の娘で元女郎だった。年季が明けからは遊廓の帳場などで働いていて、今は、遊廓に売られてきた少女たちに生きるために必要なことを教えている。鐵子さんは、遊廓の中でひっそりと、自立して生きている。

自分の名前をきちんと読めること、書けることは、契約書や帳簿をごまかされないために必要。お客へ書く手紙よりも大事なこと。女たちは、助け合いながら、したたかに生きていく術を学んでいる。

花魁の東雲さんと紫さんは東雲楼の稼ぎ頭で、彼女たちの稼ぎで、楼の人や物が回っている。そして彼女たちは借金にしばられているわけではなく、自分の意思で女郎をやめることができる。彼女たちも自立している。

登場する女性たちがそれぞれが、自分の境遇を悲観するわけでもなく、だからといって全面的に受け入れているわけでもなく、しなやかに、飄々と生きている。

そして、最後には一致団結して行動を起こすのだった。それも、大胆ではあるけれど、派手ではなく、淡々と実行されるのだった。

江戸から明治へ、時代の変わり目を経て、女たちも生き方を自分で選ぶことができるということに気づく物語なのかもしれない。ここに登場する女性たちは廓のなかでも恵まれた境遇であったのだろうけれど、運命を受け入れるしかないとは思わずに、運命を切り開こうという志を持った女性たちに少し勇気をもらった気がする。

(電子書籍で読了)

もやもやする◆『彼女は頭が悪いから』姫野 カオルコ

実際の事件を題材にした小説(フィクション)。この事件は当時のニュースで知って印象に残っていた。どこまでフィクションに置き換わっているのかも興味深かったのだけど、事件そのものはほぼ実際の状況を再現しているようだった。そこもフィクションに置き換えてもよかったと思うけれど、割り箸とかドライヤーとか、実際のニュースでも報道されたキーワードが出てきてちょっともやもや。というのも、物語の世界よりも、実際の事件との差違について考えてしまって、気もそぞろになってしまった。完全にフィクションで事件そのものの内容も実際とは変えてあれば、物語に没頭できたのに。

一方で、ノンフィクションとは違って、登場人物たちの名前や経歴は変えてある(と思う)。事件が起こるまでの出来事も、どこまでが作者の想像でどこまでが事実なのかがよくわからないから、ここでももやもや。個人的には、中途半端なフィクションよりは、ノンフィクションのほうがすっきりしていい。

前知識なしに小説として読んだらどうか、と考えてみたけれど、うーん。

事件の起こるまでの経緯も、結果も、やっぱりもやもやのまま。東大生のグループが女子大生を部屋で裸にしてわいせつ行為をした、という事件なのだけど、レイプはしていないし、わいせつ目的というよりは女性をからかって貶めるような、ふざけ目的だったみたい。当時のニュースでも、事件の詳細が報道されていたけれど、そのあたりがもやもやしていて、この加害者たちはいったいなにをしたかったんだろう、って疑問だった。

小説では、そのあたりの疑問については一応の答えがあって、それを明かにするための物語のようだった。世の中には、エリート意識にとらわれていて、自分よりも地位や学歴が低いと思われる人々を蔑んだりバカにしたり見下したりする人々がいる。不幸にもそういうグループの被害にあってしまった普通の女子大生。その溝は、事件の前も後も、埋められない。加害者たちは自分に落ち度があったとは思っていない。自分たちには(自分たちよりも下の階層にいる)被害者に対してどんなことをしても許されて当然だと思っている。

では、今回加害者になった東大生たちのような人たちに対して、そうでない(見下される側の)人たちはどうしたらいいのか。その答えは書いてない。

なので、前知識なしにフィクションとして読んでも、読後はもやもやするんじゃないかと思う。ネタバレになるけれども、結局、加害者たちはそれぞれに和解案を受け入れたり、裁判で有罪判決を受けたりはしたけれど、事件そのものを反省はせず、エリート意識はそのまま。被害者となった女子大生も事件後はバッシングを受けたりして事件前と同じような生活は送れないという結末。もやもや。

もやもやは現実だけで、小説の中ではすっきりしたい。

(電子書籍で読了)